【摩周の朝礼】第二回 「”型”ということ」

 

前回「ルールと作法とは違う」ということについて述べましたが、今回は型とポーズとは違う、ということについて。
JUGAHでは、すべての動きを型と呼びます。これも、作法と一緒でやっぱりその呼び方ひとつで内容も変わってくる。言霊ということもあると思いますし。
僕は若い頃、「型って、ダセえな」と思っていました。だって、型をやって人に勝てるわけないじゃんと。すべてが勝ち負けだったし、そういう鎧をかぶっていたので。世の中勝ち負け。じゃないと死ぬ。そう思って生きてきた。だから、型ってダサいと。でもハワイの志統館の空手を見ながら、少しずつ型を壊して、崩していって実戦に戻すという、その過程の中で「型ってすげえな」と気づいたんですよ。
まず型があるからマニュアルが作れる。要は達人しか到達できない技を、ほかの人に教えるための方法なんですよね。だから、全員参加できる。型が一個あれば別に年寄りでも若者でも男女の関係なしにできるじゃないですか。これを持ち帰って好きにやるわけではなくて型になぞって見倣ってやる。これはシンクロニシティなんですよね。型のすごさは、しっかり理解して、型をとことんやり抜いたら最強の一発を相手にぶちこめるというところです。ということは、型ってポーズじゃないなと。僕もよくポーズとか言っちゃうんですけど、でも今後、JUGAHは型にしようと。あとは実戦向け。イメージが実戦向けじゃない型というのは、実はめちゃくちゃ実戦のために必要なものだと気づいて、それもJUGAHに合っているなと思ったんです。たとえば人の型。人のポーズじゃないんです、人の型なんです。ポーズという英語だと伝わらないんですけど、人の型だと、それを解体して分解していって実戦向けにいろいろ動けるわけですよ。人の型って二の腕にも効くし、ウエストも作れるし、ストレッチにも使える。そして、いろいろな動きにリンクしている。天地の型のアドバンスバージョンが人の型で、型が型同士で連動できる。でも、ポーズというものは、ひとつで終わってしまうし、ひとつで完結してしまう。JUGAHというのは、きわめて流動的なものなのでポーズとは違う。ひとつの型の動きは、行ったら帰ってこないといけないし、止まってはいけないものなんです。

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